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両宮山古墳

古墳の概要

 両宮山古墳は、赤磐市和田・穂崎に造られた5世紀後半の前方後円墳であり、昭和2年(1927)4月8日に国史跡に指定されました。

 墳丘の全長は備前地域では最大規模の206mをはかり、全国で39番目の墳丘規模をもちます。そして、岡山県内では5世紀前半に造られた造山古墳(岡山市新庄下:350m)、作山古墳(総社市三須:283m)とともに吉備の三大古墳の1つとして数えられています。

 両宮山古墳の墳丘には、一部が埋没して水田化しているものの、水をたたえた周濠(しゅうごう)が巡っています。江戸時代となり、周濠は農業用のため池として改修・再利用されてきましたが、現在こうした状況を美しく残す古墳は、岡山県内ではこの古墳のみであり、見学者を引きつける大きな魅力となっています。

 平成14~16年度の確認調査の成果によって、この周濠の外側で、新たに周濠の存在が発見され、築造当初の両宮山古墳には二重の周濠がともなっていたことが明らかになりました。これにより、墳丘だけでなく、これを取り囲む二重の周濠までを含めた古墳の総延長は主軸線上で349mにおよぶ大きさであることがわかりました。

 二重の周濠をもつ古墳は、墓域の拡大や荘厳化を目的に畿内(きない)の天皇陵とされている大王墓などを中心にみられ、大王との近親関係によって採用されたものと考えられます。また、墳丘の平面形は大仙(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵)の大きさの5分の2の大きさに設計されており、こうしたことからも、両宮山古墳に埋葬された人物は、大和政権の有力首長と強い結びつきをもっていたと思われます。

両宮山古墳とその周辺(東から) ▲両宮山古墳とその周辺(東から)
全景(北西から) ▲全景(北西から)

 

 両宮山古墳の墳丘は三段築成であり、前方部の南西側は保存状態が比較的よく、中段と下段のテラスが残っています。また、墳丘の両側のくびれ部には極めて高い造り出しをもっています。

 墳丘上の調査はこれまでに実施していませんが、墳丘裾部の堆積層の状況や平成14~16年度の確認調査の成果では、これまでに葺石(ふきいし)も埴輪もみつかっていません。このことは古墳築造の最終作業が行われなかった可能性があり、両宮山古墳の謎となっています。速断はできませんが、何らかの原因で通常の埋葬が実施されなかったのかもしれません。

 また、両宮山古墳が築造された以降は、この地域で同規模クラスの大形古墳が認められなくなります。もちろん、大形古墳の築造のみが首長としての権威を示しているわけではありませんが、そうしたことが、吉備の政治的衰退と結び付けられて語られる要因となっているのかもしれません。

吉備の反乱伝承…「日本書紀」の記述によれば、雄略天皇7年(463年)には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)が、雄略天皇が崩御した同23年(479年)には、稚媛(わかひめ)・星川皇子(ほしかわのみこ)が、大和政権に対して反乱を起こしたとされる。しかし、いずれの反乱も鎮圧されてしまい、これらを機会に吉備の政治的衰退が始まったとされる。

墳丘と周濠(北から) ▲墳丘と周濠(北から)
後円部北西側の外濠(西から) ▲後円部北西側の外濠(西から)

 

※両宮山古墳とその周辺遺跡を散策する「両宮山古墳・備前国分寺跡と周辺遺跡をめぐるコース」はこちらへ 

 両宮山古墳の周辺の古墳を紹介するページはこちら


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